掲載日: 2022年2月16日
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北のほうで10アール当たりのお米のとれる量が南のほうより多いのはなぜなのか、調べています。わたしは品種改良をしているから、とれる量が多くなるのではないのかと思いました。本当はどうなのですか?
昭和の初めごろまでは、奈良(なら)県や大阪(おおさか)府などの南の地方のほうが面積当たりの生産量は全国でもトップでした。同じ面積なら、暖かい地方のほうがたくさんとれていたのです。
しかし、戦後まもなく、長野(ながの)県や東北地方の県が新チャンピオンになったのです。山形県などの寒い北の地方で、なぜこんなに米の生産量が上がったのでしょうか?
まず1番めには、米作りに熱心な農家の人が多いということです。
明治から昭和の始めにかけては熱心な農家の人が、自分で品種を創ったり、新しい技術をどんどんとり入れて、天気の悪い年もたくさんとれる米作りの研究をしていました。
新しい技術の例をあげると、昭和24年ごろから始まった、苗を暖かくして育てる方法があります。それまでは、寒い地方なので雪解けが遅いため、タネをまくのが遅れてしまったり、タネまきの後に寒くなったり、ひどいときは雪が降ったりして、じょうぶで元気な苗を育てることができませんでした。
それが、苗を暖かくして育ててやる方法が開発され、田植えが1カ月早くできるようになったのです。これはとてもすばらしい技術でした。それまで6月だった田植えが、5月の10日ごろに早くなったために、「いなほ」が出て花がさくのが、米作りで一番良い8月10日ごろになったのです。
また、山形県で開発された技術で、肥料のやり方があります。この技術が開発されるまでは、田植えをする前に、田んぼに肥料を入れて、おしまいでした。田植えをした後に肥料をやることはほとんどなかったのです。肥料といっても今のような化学肥料でなく、「たい肥」のようなものでした。
山形県で開発した技術は、米作りに、日本で初めて化学肥料を使っただけでなく、田植えの前には、だいたい3分の2くらいしか入れず、のこりの3分の1は、後でイネが大きくなってから田んぼに入れる、というものでした。
その後も肥料のやり方の改良が続けられ、昭和42年、ついに山形県は初めて、面積当たりの生産量が日本一になったのです。このあとは、全国トップの米の生産地として発展してきました。
現在も、農家の人は、イネのことについてよく知っていて、おいしい米をたくさん作ることに、とてもいっしょうけんめいです。
2つめは気候です。
<夏の気温のちがい>
南の地方では、夏の気温が上がっても、それほどとれるお米の量は増えません。逆に気温が高すぎると、とれる量は減ってしまいます。しかし、東北地方では、夏の気温がイネの生長に適していて、お米のとれる量が多くなります。
<昼と夜の気温のちがい>
それから、夜の気温が低い方が、植物もじっとしているので栄養をあまり使わずにすみます。昼は気温が適当でよく育ち、夜は気温が低くてしっかり休める東北地方の気候がお米の生長によいのです。
3つめに品種のちがいです。
南の地方では、昼が短くなるとイネの実である米を作り始める品種が植えられています。東北地方では、気温が高くなったら米を作り始める品種を植えているので、昼が短くなってもすぐに米を作り始めません。気温が高くなるまでよ~く育って、準備をしっかりすることができるので、たくさんの実(お米)をつけることができるのです。