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ホーム > 作物別情報 > 水稲 > 米づくりQ&A > 庄内平野では、何年から米作りをはじめたのですか?

掲載日: 2022年2月16日

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質問

庄内平野では、何年から米作りをはじめたのですか?

答え

縄文時代の終わりころ~弥生時代のはじめころに北九州で始まった米作りは、50年から100年後には大阪あたりまで、さらにその後、太平洋側・日本海側を北上して、日本で米作りが始まってから200年後には、太平洋側は宮城県仙台市あたりまでと、日本海側は青森県津軽平野あたりまで進んでいました。青森県の田舎館村(いなかだてむら)の垂柳(たれやなぎ)遺跡から発見された田んぼは、今から2,200~2,300年前の弥生時代中期のものとみられています。この時代に東北の北部まで水田での米作りが伝わっていた決定的なしょうこです。

山形県・庄内地方にもそのころ伝わったと思いますが、庄内で、米作りをするための田んぼが本格的に作られた(=「開墾(かいこん)」といいます)のは、8世紀になってからです。712年に出羽の国が置かれてから田んぼをたくさん作ることにしました。「柵戸」と呼ばれる開拓者が庄内にやって来て、荒地を田んぼにしていったのです。

当時は、わりとかんたんに田んぼへ水が引けるような沢や沼の周辺などが田んぼとして作られ、その後農業土木技術の進歩とともに、水路を築き、その周辺の農地がひらかれていきました。

もともと庄内平野は大昔「潟湖(がたこ)」といって、海とつながる大きな湖でした(秋田県の八郎潟(はちろうがた)も以前は大きな潟湖でしたが、今は埋め立てられています)。潟湖だった庄内平野は最上川が運んでくる土や砂がたまって、だんだんとうめられていきました。

庄内地方に広がる平野は、このようにしてできていったのですが、もともとがそんな湖ですから、水はけの悪い、じめじめとしめった土地だったのです(水はけの悪い地形だったため、あちこちに沼地ができて、現在でも地名となって残っています)。また、領土として庄内平野をねらって戦国武将の間で奪い合いの争いがくり返されてきたため、開拓に着手することができませんでした。

そんな庄内平野に豊かな実りを、ということで昔の人がいっしょうけんめいに努力したのが「水路の開発」でした。

庄内で記録に残る最も古い水路は、1384年に作られました。この水路は、現在も利用されています。その後、田んぼを作る仕事はよりいっそう広がっていきました。さらに、1591年に最上川の支流である相沢川から水を引く水路「大町溝(おおまちこう)」が開かれました。また、1612年には、同じく最上川の支流の立谷沢川(たちやざわがわ)から水を引く水路の「北楯大堰(きただておおぜき)」が開かれました。開く仕事のために庄内平野全体から集められた人は、7,400人をこえたといわれています。

この北楯大堰が完成したことにより、荒れた野原は次々と田んぼに変わり、新しく5,000ヘクタールの田んぼが開発されました。新たな土地で米作りを始めようとする人々が続々と集まり、88の新しい村ができたといわれます。現在でも、5,000ヘクタール=東京ディズニーランド約100個分という広い面積の田んぼへは、この水路によって水が引かれています。最上川水系には、現在、1本で1,000ヘクタール以上の田んぼに水を引ける水路が6本あるのですが、5,000ヘクタールに引ける北楯大堰はこの中で規模が一番大きいものです。

こうした昔の人の努力により、最上川から引かれた豊富な水と、豊かな土、米作りに最適な気候に恵まれた庄内平野では、領主酒井公により、「日本を支える米蔵(こめぐら)」として積極的に米を増産したので、米の一大生産地として全国に「庄内」の名が知れ渡っていました。

1592年文禄の役では、豊臣秀吉が御用米として庄内米を使ったり(肥前の国=現在の佐賀県へ送った)、1672年江戸の大ききんの時には、幕府は河村瑞賢(かわむらずいけん)に西まわり航路(酒田→下関→大阪→江戸のように、日本海を南下し、瀬戸内海を通り、太平洋側を北上して江戸へ行く航路)を開拓させて庄内米を江戸に送って、危機を救ったと伝えられています。

庄内平野は400年も昔から、日本全国においしい米を届けてきた「日本のお米のふるさと」なのです。

庄内米の歴史

庄内から全国へ

文禄の役(豊臣秀吉の朝鮮出兵 1592年)のころ、庄内米が御用米として酒田港から肥前国(佐賀県 出兵の基地になっていた)に移出されていたという史実がある。

しかし、本格的に稲作を奨励し、積極的に領外に庄内米を出したのは酒井忠勝が、信濃松代から庄内に移された1622年以降のことである。酒井家が庄内を治めるようになったころは、最上家によって過去数十年にわたり土木水利事業や開田が行われ、稲作の基盤がようやく出来上がろうとしていたときであった。

酒井忠勝は「庄内は天恵の沃野、正に之を以て国を立つべき楽土なり」と積極的に稲作を奨励した。

以後250年にわたって、酒井家が庄内藩14万石を統治したのであるが、酒井藩の農政の基本は、少ない労働力で多くの土地を耕し、米の増産を図ったことと、農家に対する貢納米の比率を高くすることであった。農民から集めた莫大な貢納米を京都や大阪に売り出し、酒井藩は大きな利益を得ることになる。

これが必然的に商人活動を活発にし、のちに庄内最大の米穀商であり、金融業者でもあった本間家の隆盛へとつながって行く。同時に商業都市としての酒田町の発展の素因をつくった。本間家の豪商ぶりは、「本間様にはおよびもせぬが、せめてなりたや殿様に」と歌われたほどである。

1672年、江戸が大飢饉に見舞われた際、江戸幕府は河村瑞賢(1618~1699)に「西廻り航路」を開発させることによって、庄内平野から莫大な米を江戸に運ぶことを可能にした。こうして、江戸の危機を救ったとされている。そのとき使用した船を千石船(千石=150トン 1石=150kg)と呼んでいる。

それより前の1649年、酒田に米の販売権を独占した米商人の組合である「米座」が設けられた。出羽の酒田は大阪の堂島、加賀の金沢とならび称され、これらは全国でも最も早かったようである。酒田港が米の積み出し港として繁栄をきわめた元禄時代、米取引きの中心として栄えた酒田の繁盛ぶりは、井原西鶴の「日本永代蔵」に北国筋最大の港として紹介されている。その頃、酒田にあって全国的にその富裕が謳われた豪商の鐙屋(あぶみや)惣左衛門を「坂田の町に鐙屋といへる大問屋住みけるが…北の国一番の米の買入れ、惣左衛門といふ名を知らざるはなし。表口30間、裏行65間を家蔵に立て続け…」と書いている。

その後時代が流れ、1893年(明治26年)には久しく栄えた米座は酒田米穀取引所と名称を変え、同時に付属倉庫として山居倉庫が誕生した。

山居倉庫は民営としては比類希な規模で、さまざまな工夫がされている。例えば、保管中の米の品質を一定に保つため建物全体が二重屋根になっていたり、西日や季節風を避けるためのケヤキ並木などは、庄内人の米に対する思い入れの表れである。この大倉庫の出現は、ますます大商人・地主の投機熱をあおり、以来、庄内米の取引は年を追って盛況をきわめ、受渡高も全国有数の市場と称された。

大正時代を経て昭和14年、米穀取引所は廃止され、国策会社である日本米穀会社が設立された。(同年四月に公布された「米穀配給統制法」による。米の価格統制を狙った、それまでの「米穀統制法」にとどまらず、流通機構にまで着手した法律。米不足と価格高騰に対処するため制定されたもので「日本米穀会社の設立」「米穀商の許可制」「配給統制の命令」がその内容だった。)

おいしい米のふるさと庄内

庄内の稲作農家は、新品種の選抜や栽培技術の改善にも積極的に取り組んでいた。庄内の地から明治以降多くの農民育種家を輩出したことで、これは全国にも誇れる快挙であった。

現在、良食味品種としてブランドを確立しているコシヒカリ、つや姫、あきたこまち、ひとめぼれなどの主要な米の品種の祖先をたどると、庄内地方の農民が育成した「亀ノ尾」(阿部亀治)や「森多早生」(森屋正助)などに行きあたる。

明治に入ると、国や県など公的機関の育種組織が整備され、水稲の品種改良も農民の手から離れて行くのであるが、なぜか庄内地方だけは農民による品種改良が盛んな土地であった。これも藩政時代から受け継がれている庄内農家の稲作に対する“こだわり”と考えるのが妥当かと思われる。東北の庄内地方は、当時冷害に見舞われることが多かったため、農民は自ら品種改良を行って、その被害を回避する努力を惜しまなかったのである。