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ホーム > 作物別情報 > 水稲 > 米づくりQ&A > 米は、一番初めどこで作られ、どうして食べ物として食べられるようになったのか。そして、それはいつ頃か。

掲載日: 2022年2月16日

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質問

米は、一番初めどこで作られ、どうして食べ物として食べられるようになったのか。そして、それはいつ頃か。

答え

今アジアで作られている(栽培=さいばい されている)稲が生まれた所は、

  1. インドの北東部からラオスの西部にかけての、中国雲南省の南西部より南の地方(この地域からは3,800年前のモミがらが見つかりました。)
  2. 揚子江の中流から下流の地域(この地域には、50ぐらいの遺跡が発見されていて、今から、9,000年前~8,000年前に、お米を作っていたことがわかりました。イネの「もみ」や「くき」の化石が出てきたからです。現在発見されている栽培種で最も古いものです。)

の2つの説が考えられています。

どちらが正しいのかはわかりませんが、どちらにしても、水辺の地域で、最初は、水辺に生えている野生の稲を集めて食べていたものと考えられています。

米作りは、野生の稲のタネを取って集めた後に、モミを住んでいる場所の近くにわざとばらまいたりして(=タネまき)、大きくなってモミが実ったら取って集める(=収穫)ことから始まったと伝えられています。

このようにして、それまで狩猟に明け暮れていた原始の人たちは、人をじゅうぶんに養えるだけの食べ物を安定して手に入れるために、原野をきりひらいて農耕や牧畜を始めました。

原始時代の人たちは、もともと自然に青々と生い茂るたくさんの草木の中から、その土地の風土によくあって、収穫量の高い植物を選び出していったのです。そして、それがその地方の食べ物として食べられるようになっていったわけです。稲だって最初は雑草のようにしか見えなかったのが、意外と収穫量が他のものより多いことに気づいたのでしょう。

やがて、メソポタミアを中心とする西側では、主食としては麦が選ばれ、インドや中国を中心とする東側では、米のほかにアワやヒエといった「こくもつ」が選び出されました。そして副食品としては狩猟動物や飼い慣らした動物の肉や乳、さらには海の幸、山の幸にも手を伸ばしていったのです。アジアで米が主食になったわけは、稲という植物がアジア(日本も入ります)の気候によく合い、たくさんの人を養うことができたからです。

世界中を見渡せばごはんの食べ方が様々あるように、日本においても米は昔からいろいろな食べ方をされてきたようです。

焼米(やきごめ)

古代の日本人は米をモミのまま焼いて食べていたことが、遺跡から出土する遺物から想像できます。調理法は、収穫直後の生のモミや、乾燥した後、モミがらがついたままのお米を、何の加工もしないで火であぶり、モミを取ってそのまま食べたり、湯茶につけて食べました。

強飯(こわいい/こわめし)

最初の「強飯」は、モミを蒸したものでした。その後、モミを玄米にした後に蒸すなど、食べやすい方法を考えました。さらに少しずつ白米にする度合いを増していき、今のような白米で「強飯」をつくる形へとたどりつきました。現在では、「強飯」は普通「モチ米」でつくりますが、古代では「モチ米」ばかりでなく「ウルチ米」も多く使ったようです。

乾飯(ほしいい)

昔の人は旅行時や戦争時など、どうしても調理器具を持って行くことができない時に、蒸して乾燥させた米を持って行きました。あとは水に浸してふくらませれば、食べることができました。

粥(かゆ)

平安時代には「強飯」に代わって、おかゆが米の調理法の主流となりました。お正月に食べる七草がゆは、雑炊のルーツとして知られています。ウルチ米を鍋や釜に入れ、水をたっぷり加えて炊きます。平安・鎌倉時代の中流階級以下にとっては、お米にさまざまなこくもつを混ぜて食べるのがふつうであり、ムギ・アワ・山イモ・アズキ・野菜類などを混ぜておかゆにしました。

握飯(にぎりめし/おむすび)

握飯に関しては、現在と同じように弁当として用いられたという記録が残っています。