掲載日: 2022年3月8日
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品種改良はいつごろからはじめたのか? 昔の品種改良のやり方を教えてください。
日本には昔はイネという植物はなく、縄文時代に中国や朝鮮半島から伝えられたといわれています。大昔のイネは、いろいろな品種がまざって作られていました。品種改良の最初は、この中から良さそうなものを選んで増やすことからはじまりました。たとえば、ある病気が流行した年に、その中で実ったものを次の年のタネにするだけでも、その病気に対して強い品種を選んだことになります。
また、自然にかけあわせが起こったりして、それまでとちがうイネが出てきたら、その場所でくりかえし植えて、その土地に1番合ったものを選んでいったのです。
イネを、花がさく時期や、「くき」の長さなどで区別して品種にしたのは、平安時代ごろからだといわれています。さらに、鎌倉時代から後になると、品種への関心が高まり、新しい品種が発見されたり、品種の分類が進んだといわれています。
このように、分類されて、たくさんの品種が植えられていた時代は江戸時代までつづき、明治時代になると、今度は、たくさんとれて、おいしくて、病気や寒さに強い品種を、もっと積極的に「人間の手」で創り出そうということになりました。
私たちの研究所がある庄内平野は、昔から農家の人がイネの品種改良をするのがさかんな地方でした。特に、余目町の阿部亀治さんが育成した「亀の尾」は、今の「コシヒカリ」や「ササニシキ」「ひとめぼれ」「あきたこまち」「はえぬき」といった、おいしい品種の先祖になります。この「亀の尾」も冷害の年に、田んぼ一面のイネが実をつけられずに、青いままの中で、たった3本だけ黄色に実った「いなほ」を見つけ、苦労して増やしたといわれています。その後、農家の人も、かけあわせで品種改良をする人が出てきて、現在、私たちの研究所でおこなっている方法とあまり変わらない方法で選び出していたようです。
そして、イネを人工的にかけあわせをする技術が、滋賀県の高橋久四郎という人によって明治31年に開発され、明治37年(1904年)から国立の試験場でイネの品種改良が始まりました。
国立の試験場とは、明治26年(1893年)に設立された農商務省の農事試験場のことで、明治37年になったときに、大阪府にあった畿内支場の、加藤茂苞(かとう しげもと)という人が国立の試験場で最初に品種改良を始めたのです。山形県では、昭和10年(1935)年に尾花沢(おばなざわ)試験地で始まり、その後、昭和57年(1982)に尾花沢試験地がなくなってからは、当所だけでおこなっています。
話は、横道にはずれますが、加藤茂苞(かとう しげもと)という人は、庄内平野の中の「鶴岡市」の出身です。東京大学を卒業してから、イネの品種改良の研究を始めた人です。
加藤茂苞は、羽州庄内藩士の加藤甚平の長男として、慶応4年(1868年)に、山形県鶴岡市家中新町に生まれました。明治24年、東京帝国大学農科大学農学科を卒業し、最初は、山形県師範学校の先生になりましたが、明治29年に転職して、できてまだ3年めの国の農業試験場に勤務しました。明治37年から畿内支場に転勤して、イネの品種改良に着手したのです。
日本で、今の品種改良の基礎を築いた人が、庄内平野の出身であったことは、庄内平野で、農家の人みずからが品種改良を進めるうえで、大変都合がよかったのです。庄内平野の農家の人の中には、イネの品種改良の技術を学ぶために、加藤茂苞(かとう しげもと)をたよって、わざわざ大阪まで行った人もいたくらいです。このおかげもあって、昔の庄内平野では、農家の人の品種改良が盛んにおこなわれたのです。
加藤茂苞(かとう しげもと)は、大阪の畿内支場でじゅうぶんに品種改良の経験を積んでから、大正5年(1916年)から、現在の秋田県の大仙市にあった陸羽支場に転勤しました。庄内平野から160キロメートルくらいと近かったので、庄内の農家の人が、おおぜい訪れて、品種改良のやり方を教えてもらったのです。また、加藤茂苞(かとう しげもと)も、何度も庄内平野に来ていました。
庄内の農家の人は、加藤茂苞(かとう しげもと)のことを、「しげもとさん」とは呼ばずに、「もほうはん」と呼んでいました。「茂」は「も」、「苞」は「ほう」とも読むので、これに、当時交流のあった京都あたりの尊敬の呼び方「はん」をつけていました。それだけ、加藤茂苞(かとう しげもと)は、庄内のお米の品種改良に重要な人だったのです。