掲載日: 2022年2月16日
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どうして、品種改良を始めたのですか?
明治までのお米の品種改良は、その土地その土地の気候に合っていて作りやすいものを、お米を作る農家の人みずからが選び出してきました。田んぼに植えられていたイネが、自然にほかのイネとかけあわせになってしまったり、ほんのわずかに遺伝子(いでんし)が変化したりして、それまでなかったようなイネが目立った時に、農家の人に拾われたのでした。
でも、自然に起こる、こうした変化を待っているだけでは、「とれ高」の大きな進歩はありませんでした。
昔のとれ高はどうだったのでしょうか。奈良時代は10アール当たり100キログラムでした。それから1,000年たった明治の中ごろは、10アール当たりで200キログラムでした。1,000年でやっと2倍です。
明治の終わりごろになると、日本に「メンデルの法則」が伝えられました。生物のいろいろな性質は、それぞれの「遺伝子(いでんし)」が伝えるという説です。遺伝のしくみがわかってくると、人工的に「かけあわせ」をして、ねらった品種を創り出せることがわかり、国の試験場でイネの品種改良が始まりました。
つまり、「もっともっとたくさんのお米をとりたい!」ということで、明治26年(1893年)に農商務省農事試験場が設立され、明治37年になったとき、大阪府の畿内支場にいた、加藤茂苞(かとう しげもと)という人が、国立の試験場で最初に品種改良を始めたのです。
(イネを人工的にかけあわせをする技術は、滋賀県の高橋久四郎という人が明治31年に開発しました。)
その後は、続々と生まれた新品種と米作り技術の向上で、30年後の大正時代には300キログラムへ、それより40年たった昭和30年ごろには400キログラムへ、それからわずか10年後の昭和40年ごろには500キログラムへと急に大きく増えていきました。今、庄内平野では、10アール当たり600キログラムのとれ高があります。
たくさんとれるイネのほかに、食べておいしいイネ、病気や寒さに強いイネ、「くき」がじょうぶで倒れにくいイネ、お米がきれいなイネなど、いろいろな品種の開発をめざして、品種改良の仕事が続けられてきました。これからも続いていきます。
話は、横道にはずれますが、加藤茂苞(かとう しげもと)という人は、庄内平野の中の「鶴岡市」の出身です。東京大学を卒業してから、イネの品種改良の研究を始めた人です。
加藤茂苞は、羽州庄内藩士の加藤甚平の長男として、慶応4年(1868年)に、山形県鶴岡市家中新町に生まれました。明治24年、東京帝国大学農科大学農学科を卒業し、最初は、山形県師範学校の先生になりましたが、明治29年に転職して、できてまだ3年めの国の農業試験場に勤務しました。明治37年から畿内支場に転勤して、イネの品種改良に着手したのです。
日本で、今の品種改良の基礎を築いた人が、庄内平野の出身であったことは、庄内平野で、農家の人みずからが品種改良を進めるうえで、大変都合がよかったのです。庄内平野の農家の人の中には、イネの品種改良の技術を学ぶために、加藤茂苞(かとう しげもと)をたよって、わざわざ大阪まで行った人もいたくらいです。このおかげもあって、昔の庄内平野では、農家の人の品種改良が盛んにおこなわれたのです。
加藤茂苞(かとう しげもと)は、大阪の畿内支場でじゅうぶんに品種改良の経験を積んでから、大正5年(1916年)から、現在の秋田県の大仙市にあった陸羽支場に転勤しました。庄内平野から160キロメートルくらいと近かったので、庄内の農家の人が、おおぜい訪れて、品種改良のやり方を教えてもらったのです。また、加藤茂苞(かとう しげもと)も、何度も庄内平野に来ていました。
庄内の農家の人は、加藤茂苞(かとう しげもと)のことを、「しげもとさん」とは呼ばずに、「もほうはん」と呼んでいました。「茂」は「も」、「苞」は「ほう」とも読むので、これに、当時交流のあった京都あたりの尊敬の呼び方「はん」をつけていました。それだけ、加藤茂苞(かとう しげもと)は、庄内のお米の品種改良に重要な人だったのです。